日本植民地教育史研究会

日本植民地教育史研究会のサイトへようこそ。本研究会は1997年3月29日に設立されました。

2015年05月

鶴橋生野コリアンタウン見学への参加記

山本一生

 

201411月に、朝鮮教育史を研究している山下達也会員と大阪で資料調査を行い、その調査の帰りに鶴橋に行ってみた。駅前の焼き肉屋に入り、食後に駅前の市場に向かった所、夜だったためほとんど全ての店舗が閉店していた。リベンジと思い、翌日の午前中に鶴橋駅前商店街を散策し、コリアンタウンの様子を見ながら市場をうろついていた。しかし、韓国系の店もあれば、普通の日本の商店街のような市場もあり、混然とした鶴橋駅前商店街に圧倒され、私達の初めての鶴橋訪問は終わった。生野コリアンタウンがあることは、この時は全く知らず、またこの商店街の形成過程については事前調査もしていなかったことから戸惑った印象だけが残った。

こうした話を北川知子会員に連絡したところ、それはもったいない、ぜひツアーを組みましょうという話になり、今回のオプショナルツアーの開催へとつながった。さらに多民族共生人権教育センターの文公輝さんをツアーガイドとして紹介して下さることとなった。北川会員と文さんには記して感謝の意を示す。

2015316日午前中に鶴橋駅で集合した参加者は、北川会員・岡部会員・金()会員・井上会員・佐藤()会員・大阪教育大の学生2名と私の8名であった。まず文さんから鶴橋駅前商店街の歴史について紹介があった。近鉄線とJR環状線が交差する鶴橋駅は敗戦後闇市、次に学生向け服屋、1950年代後半にコリアンタウン化していったという。当初からコリアンタウンとして形成されていたわけではなかった。また北川会員の説明では鶴橋商店街は複数の行政区にまたがっているとのことで、それが鶴橋商店街の複雑さにつながったと分かった。商店街の雰囲気が地区によって違う背景が垣間見えた。現在の鶴橋駅前には焼き肉屋が軒を連ねているが、1946年に専門店舗の焼肉屋ができたことがきっかけだという。日本式の焼肉スタイルは客の一人一人が肉を焼き、タレに付けるスタイルだが、それは日本式の鍋に由来するという。朝鮮半島では漬け込み肉を店員が焼くスタイルなので、日本人になじみやすいような工夫をしていたことに驚いた。一方商店街にはチマチョゴリやチェサ(儀式)の餅を扱う店もある。こうした店は冠婚葬祭用に在日コリアンが求めた店であった。文化継承のためにこうした店が集まるコリアンタウンが形成されていったという。日本への現地化と、在日コリアンの文化継承という両側面がこの商店街に見られるのであった。

一行は文さんの職場であるセンターでパネル学習をした後、鶴橋商店街から歩いて15分程の猪飼野コリアンタウンへと向かった。戦前は兵器工廠の下請け工場が多く、仕事があるからと朝鮮人労働者が集まった。元々は農村だったが長屋街が形成されていった。しかし朝鮮人への入居拒否といった差別により、旧平野川周辺の住宅に入居することとなった。この川は氾濫することがあり、居住条件が悪いために日本人入居者には不人気であった。そのため朝鮮人を受け入れ始めたという。元々の朝鮮人市場は空襲で焼き出され、疎開によって空き店舗が多かった猪飼野商店街に移ることとなり、コリアンタウンの形成につながったという。ただしその当時からコリアンタウンと称していたわけではなく、1990年代に様々な協議を経て御幸通り商店街から生野コリアンタウンという名称を用いることになったという。このように朝鮮人差別と戦争があったからこそ、猪飼野がコリアンタウンとして形成されていったことを知ることとなった。単にグルメや韓流グッズの街として消費するだけでなく、この街が何故形成されてきたのか、その歴史の重みの前に、身の引き締まる思いがした。

 去る2015314日、15日に第18回研究大会が大手前短期大学で開催されました。
シンポジウムでは、「植民地教育支配とモラルの相克」をテーマに、佐藤広美会員(東京家政学院大学)の司会・発題のもと、井上薫会員(釧路短期大学)、李省展会員(恵泉女学園大学)、一盛真会員(鳥取大学)、田中寛会員(大東文化大学)からご報告いただき、闊達な討議が交わされました。翌日の自由研究発表では、山本一生会員から「私立青島学院の教育課程における商業教育の意義と編成方法―「日支共学」理念の実施に注目して―」との題目による報告が行われました。

 研究大会に参加した清水知子会員、金英美会員から参加報告をいただきました。

 

≪シンポジウム≫「植民地教育支配とモラルの相克」参加記 

 

 「モラル」という言葉がカバーする範囲の広さ、意味の多様さにめまいを覚えるとともに、問題を切り取る新たな切り口を見せていただいたというのが、今回のシンポジウムに参加しての正直な感想です。

5人の会員による発題と発表、そして質疑応答から見えたモラルの種類を私なりに分類すれば、①支配者が優位に立つことを自明とし、植民地の内地化を善とする思想そのものを指す「国家的モラル」、②個人の中で構築され、人によって異なる「個人的モラル」、③時代の中で生まれ変化していく「時代的モラル」、④さまざまなモラルを評価し断罪するツールとなりうる「普遍的モラル」、といったものになります。さらに、これらの分類基準には揺れやねじれがあるため、文脈によってはそのいずれにも読み取れること、客観的記述のつもりが場合によっては非難や糾弾にもなりうることにも気づかされました。今後、モラルという言葉を安易に使うことを自分に戒めつつ、こうした視点を研究にいかに取り入れていくかを自問していきたいと思います。                                                                                                                  (清水知子) 

 

《自由研究発表・報告》(大会2日目) 

山本一生 「私立青島学院の教育課程における商業教育の意義と編成方法―「日支共学」理念の実施に注目して―」

 

18回研究大会の二日目の自由研究発表で山本一生氏は「私立青島学院の教育課程における商業教育の意義と編成方法」-「日支共学」理念の実施に注目して-という題で発表を行った。発表内容は

華北では最初に(1916年)日本政府の在外指定を受けながらも中国人を多数受け入れ、「日支共学」を実践し、唯一の私立中等学校であった青島学院の教育課程を考察した。第一に、学院設立当初の教育課程の分析が行われ、商業学校設置後の教育課程の変化が検討された結果、青島学院は日本政府からの補助金、在外指定の認可によって「内地」の学制に包摂されていったことを明らかにした。 第二に、19339月に行われた膠済鉄道沿線での販売実習を分析し、「日支共学」理念がどのように実施されたか検証した結果、学院の学科課程と「内地」の学制とは全く同じではなく、異なる課程で行われていた。学院には二つの予科があり、1921年の商業学校規定にある二年制の予科と、中国人学生を対象とした一年制の予科である。中国人には一年制の予科で日本語を習得させたが、日本人には中国語予科課程はなかった。日中両国の学生を平等に実施するのではなく、いわば日本の学校制度に順応することが中国人学生に求められた。最後に、卒業生の証言から中国人が青島学院に入学した目的は日本企業に就職するため、日本語を勉強していたというが、より実証的な資料の補強が必要であろう。              (金英美)

33回定例研究会を下記の日程で行います。

日 時:2015627日(土)13:3017:00

会 場:相模女子大学 マーガレット本館3階 2131教室〈小田急線相模大野駅より徒歩10分〉

   *会場借用の関係で、「岡部ゼミ・日本植民地教育史研究会合同研究例会」と表示されます。

《プログラム》   ※各発表は質疑を含めて60分(質疑20分程度を想定)、次発表間15分休憩

13:00  受付    

13:30  発表者①  赤木奈央(拓殖大学大学院言語教育研究科言語教育学専攻博士後期課程在学

発表テーマ:大正後期から昭和初期の台南師範学校附属公学校作成の話し方科の教育実習用教材について

【発表要旨】明治29年に設置された公学校教員養成機関である国語学校(後の師範学校)は、度重なる規則改正により、最終的に全島に6校設置された。台南師範学校は台北師範学校と共に附属公学校が設置され、教授法や教科書についての研究が盛んであった。本研究は、台南附属公学校が編纂した師範学校生徒の教育実習教材である『公学校教育の第一歩』(13)とその改訂版の『公学校教授の新研究』(2)、『最新公学校教授指針』(5)を分析し、大正後期から昭和初期の公学校の話し方科の教授法及び教授方針を考察する。

14:45  発表者②  船越亮佑(東京学芸大学大学院連合学校在学)

発表テーマ:「満洲」国民科大陸事情の教科書にみえる民族協和

【発表要旨】

 本発表は、日本内地で公布された国民学校令と呼応するかたちで、1941年に設置されることとなった在満・関東国民学校の独自科目「国民科大陸事情及満語」の大陸事情の教科書についての研究報告である。「満洲」の日本人子弟教育は、直轄の植民地である台湾や朝鮮と性格を異にし、内地の国民学校教育の単なる延長とはならなかった。民族協和をうたう「満洲国」建国後、日本人教育に何が求められたのか、新設科目の教科書をもとに考える。

16:00  発表者③  田中寛(大東文化大学)

発表テーマ戦時下帝国日本の国語・日本語政策の一断面―『教育週報』掲載記事を例に―

【発表要旨】日本国内においては国語国字問題、国外にむけては日本語普及という言語政策は戦時下において相補する関係で推移していったが、その実態を為藤五郎主幹『教育週報』に掲載された関連記事を時系列的に追いながら国策への道を検証する。記事の中には第二回国語対策協議会、満州国東亜教育大会などの概要も示されており、本誌は教育史研究にとって重要な資料的価値を持つ。国語・日本語の「対策」から「政策」、さらに国策」への形成の一端をたどってみたい。

終了予定 1700

※終了後、会場近辺に場を移しての懇親会を予定しています。

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