鶴橋生野コリアンタウン見学への参加記
山本一生
2014年11月に、朝鮮教育史を研究している山下達也会員と大阪で資料調査を行い、その調査の帰りに鶴橋に行ってみた。駅前の焼き肉屋に入り、食後に駅前の市場に向かった所、夜だったためほとんど全ての店舗が閉店していた。リベンジと思い、翌日の午前中に鶴橋駅前商店街を散策し、コリアンタウンの様子を見ながら市場をうろついていた。しかし、韓国系の店もあれば、普通の日本の商店街のような市場もあり、混然とした鶴橋駅前商店街に圧倒され、私達の初めての鶴橋訪問は終わった。生野コリアンタウンがあることは、この時は全く知らず、またこの商店街の形成過程については事前調査もしていなかったことから戸惑った印象だけが残った。
こうした話を北川知子会員に連絡したところ、それはもったいない、ぜひツアーを組みましょうという話になり、今回のオプショナルツアーの開催へとつながった。さらに多民族共生人権教育センターの文公輝さんをツアーガイドとして紹介して下さることとなった。北川会員と文さんには記して感謝の意を示す。
2015年3月16日午前中に鶴橋駅で集合した参加者は、北川会員・岡部会員・金(英)会員・井上会員・佐藤(由)会員・大阪教育大の学生2名と私の8名であった。まず文さんから鶴橋駅前商店街の歴史について紹介があった。近鉄線とJR環状線が交差する鶴橋駅は敗戦後闇市、次に学生向け服屋、1950年代後半にコリアンタウン化していったという。当初からコリアンタウンとして形成されていたわけではなかった。また北川会員の説明では鶴橋商店街は複数の行政区にまたがっているとのことで、それが鶴橋商店街の複雑さにつながったと分かった。商店街の雰囲気が地区によって違う背景が垣間見えた。現在の鶴橋駅前には焼き肉屋が軒を連ねているが、1946年に専門店舗の焼肉屋ができたことがきっかけだという。日本式の焼肉スタイルは客の一人一人が肉を焼き、タレに付けるスタイルだが、それは日本式の鍋に由来するという。朝鮮半島では漬け込み肉を店員が焼くスタイルなので、日本人になじみやすいような工夫をしていたことに驚いた。一方商店街にはチマチョゴリやチェサ(儀式)の餅を扱う店もある。こうした店は冠婚葬祭用に在日コリアンが求めた店であった。文化継承のためにこうした店が集まるコリアンタウンが形成されていったという。日本への現地化と、在日コリアンの文化継承という両側面がこの商店街に見られるのであった。
一行は文さんの職場であるセンターでパネル学習をした後、鶴橋商店街から歩いて15分程の猪飼野コリアンタウンへと向かった。戦前は兵器工廠の下請け工場が多く、仕事があるからと朝鮮人労働者が集まった。元々は農村だったが長屋街が形成されていった。しかし朝鮮人への入居拒否といった差別により、旧平野川周辺の住宅に入居することとなった。この川は氾濫することがあり、居住条件が悪いために日本人入居者には不人気であった。そのため朝鮮人を受け入れ始めたという。元々の朝鮮人市場は空襲で焼き出され、疎開によって空き店舗が多かった猪飼野商店街に移ることとなり、コリアンタウンの形成につながったという。ただしその当時からコリアンタウンと称していたわけではなく、1990年代に様々な協議を経て御幸通り商店街から生野コリアンタウンという名称を用いることになったという。このように朝鮮人差別と戦争があったからこそ、猪飼野がコリアンタウンとして形成されていったことを知ることとなった。単にグルメや韓流グッズの街として消費するだけでなく、この街が何故形成されてきたのか、その歴史の重みの前に、身の引き締まる思いがした。